映画評「見はらし世代」

☆☆★(5点/10点満点中)
2025年日本映画 監督・団塚唯我
ネタバレあり

先日渋谷の西武が閉店することが報道されたように、渋谷は再開発で大きく変わりつつある。本作はそんな渋谷の再開発を背景に、建築家の遠藤憲一とその家族の関係性を綴るドラマであるが、団塚唯我という注目の若手監督の、文字通り唯我ならぬ独り合点が目立って、何のこっちゃでござった。僕くらいこの手の映画を観ている人間でもそうなのだから、見慣れない方にはなおさらであろう。
 カンヌの名前につられて一時は客が邦画受賞作に押し寄せる時代があったが、全く万人向きではない河瀬直美のせいでカンヌの名前では客が寄らなくなったのではないか? 勘違いしては困るが、僕は河瀬直美が結構好きであるので、この指摘の行間を読んで下され。

2010年頃だろうか、仕事人間の建築家遠藤憲一が、妻・井川遥や長女や長男の為に家族サーヴィスに旅行にやって来る。が、現場についてからも仕事の電話があり、結局彼は仕事に向かわなければならない。
 10年後に黒崎煌代に成長した(恐らく二十歳くらい)長男は、豪華な胡蝶蘭を配送する仕事に就いている。彼や木竜麻生に成長した(二十五歳くらい?)長女の話から、7年前に母親を失い、その後海外に仕事の場を求めた父親とは疎遠になっている。
 父親が日本に戻って仕事をスタートしたらしく、渋谷で仕事をしていることを知った黒崎君は他人の花を奪って現場へ向かう。父親はアシスタントらしい女性菊池亜希子と親しげにしているので、現場を離れ、後日再送の為に訪れ、結局この時の言動が元で会社を首になる。彼なりに父親との距離を考えつつあるようだが、結婚を考えているという姉は家族の再生などには関心がない。
 遠藤は亜希子嬢を連れ、また、黒崎君は姉を連れて、母親と過ごしたPAのレストランへ別々に集まる。姉は相変わらず無関心の体であり、亜希子嬢も現場を立ち去る。

左脳人間である僕が本作で一番に気になったこの後の場面で、麻生譲と亜希子嬢はさる教室で知り合って交信も出来る関係性であるが、麻生嬢が彼女を車に呼び寄せてかつて住んでいた家に侵入する時に、彼女は相手が父親の恋人であることを知っていたか、ということである。
 それによっては、麻生嬢の父親に対する思いが変わる可能性があり、あるいは一人で生きることを決めたと言う亜希子嬢の思いに対する我々の理解も変わって来る。僕は知らないと踏んだが、こういうのははっきりしないと左脳派には気持ち悪い。ここの扱い次第では★一つくらい増やせたかもしれない。

電球にまつわる怪奇現象の話を黒崎君が車の中で聞いている場面が二回出てき、これを布石にして、レストランで電灯が落下した後、母親の亡霊が現れる。死んだ人が隣に座る場面が出て来る映画を三日続けて観るとは。これこそ怪奇現象ですぜ。
 それまで極めて現実的に場面を扱ってきた映画が突然ファンタジーになる。それをあたかも即実的に扱うところが段塚監督の個性なのであろうが、いずれにしても一貫性を考える時に変な具合になったのは確か。
 昨日までの二作は主人公の頭の中で故人が座って話すわけだが、この映画の遥ちゃんは亡霊であり、しかも子供たちにもきちんと見えている。しかし、彼女には子供たちは見えていないらしい。この辺りの設定がファンタジーであっても合理性を求めたがる向き(左脳人間ですかな)には気持ち悪い。

そして最後には人間ではなく、再開発された渋谷が主人公になったようで、突然それまで出て来なかった人物が二人出て来て現代っ子らしい会話をして終わり。
 彼らの乗っていたのがキックボード(LUUPなるシェアリング)で、東京に住んでいないとこの乗り物がどれほど東京あるいは渋谷らしさを表現しているのか解らない歯がゆさあり。

田舎に引っ込んで年を取ると、東京へ行くのも怖くなる。昨年夏に行こうと思って果たせず、今年も旧友に逢いに行こうと思っている。そう思っているせいか、鉄道事故で電車が動かなくて乗客が大弱りという報道をよく目にする。こういうのを見聞きすると益々怖くなるですな。

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