映画評「男神」

☆☆★(5点/10点満点中)
2025年日本映画 監督・井上雅貴
ネタバレあり

こういう古代の神に関連付ける映画を観ると、文化人類学者ジェームズ・フレーザーの大著「金枝篇」の古代宗教行事の記述に思いが行く。本作にはフレーザーが現在に甦ったような白人の民俗学者(チャールズ・グラバー)が出て来て活躍する。

新興住宅地の開発に絡んで地元のカウボーイ青年・岩橋玄樹が地鎮祭の現場に現れ中止を進言する。翌日巨大な謎の穴が発見される。
 この開発に絡む企業に勤める遠藤雄弥が、小学下級生くらいの息子が妻・彩凪翔と共に消えた為に調べていくのと並行して、開拓予定地に突然開いた穴を調べるべく関係者に請われた白人学者の指導の下、老イタコ・沢田亜矢子やらその道の専門家が集まってくる。彼らによって彼は、妻子が穴の先にある異界にい、そこで男神の通称のみが知られる縄文時代の神に彼の息子が生贄にされかけていることを知る。妻は代々その世界の巫女である。
 かくして彼は妻子を取り返す為に穴の中に入り、ばば・すずき敬子に統率された巫女と対峙することになる。

日本の土着的な風習と言えば琉球諸島、薩南諸島、青森県の恐山などを思い浮かぶが、本作は地下に埋もれた古代信仰を現在に強引に持ってきたところに、文化人類学・民俗学的な興味をそそるものがあり、張りぼて的ではあるものの、一定の面白味を感じる。
 ホラー映画として観ると一向に怖くないし、論理的にも破綻している感じがあるも、大目に見たくなる。

日本語が喋れない白人学者と日本人との間に日本語スピーカーである学者の娘が通訳として介在するのを示しつつ、多くは英語と日本語とで直接会話しているように見える。しかし、ここには作者と観客との間で、通訳作業を省略しているという一種の約束が為されていることを感じる余地があって、僕は全く首を傾げない。メキシコを舞台に宍戸錠が暴れまくる「メキシコ無宿」(1962年)での言語管理の滅茶苦茶ぶりとは全く違うと感じられるものがある。長年映画を観て来た勘みたいなものだ。

ブログを始めて数年経った頃、鑑賞の数を威張るなかれ(僕は威張った憶えはないが、ブログに出ている記事数から判断したのだろう)という、比較的丁寧なコメントが寄せらせたことがある。その人によれば、余り経験がない人でも鋭い見解を見せる人がいる、と。しかし、批評の第一の仕事は他との差を計ることであって、鋭い見解を示すことではない。僕などは凡俗な人間だから鋭い意見などまずできないと自認しているが、その代わり数をこなしているので比較においては断然有利である。映画を始めて(=初めて)観た人がその作品に対していくら鋭い見解を示したとしても、彼なり彼女なりは他の映画との比較は一切できない。その意味で初めて観た映画は全て傑作である。

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