映画評「おんなの渦と淵と流れ」
☆☆☆(6点/10点満点中)
1964年日本映画 監督・中平康
ネタバレあり
20年くらい前から中平康をご贔屓と称しチャンスがあると観て来た。彼の場合は画面が面白いのである。話がつまらなくても画面が良ければOKだ。プライムビデオでの鑑賞で、解像度はいま一つ。
本作は榛葉英治という殆ど忘れられた大衆小説家の三部作「渦」「淵」「流れ」(まとめて「渦」というらしい。近松秋江「黒髪」と同じようなもの)を映画化したもので、序盤こそ大衆的であるが、結構純文学である。映画もその三つに分かれる。
戦時中満州で写真見合い結婚をした英文学翻訳家・仲谷昇が、清純と思っていた妻・稲野和子に貞操観に疑いを持ち始め、本土へ戻った後小料理屋を始めた彼女が客の北山和夫と懇ろになっていることに気付き、遂には温泉に出かけたふりをしてこっそり家に戻り、その現場を覗き見る。
ここまでが第一部の「渦」で、視点は夫側である。
しかし、そに事実が表に出ると彼の精神は一種の柵から解き放たれ、妻を許す気になる。実際妻は彼のみを愛してきたと自認している。二人がかく精神的にすれ違ったのは、妻が彼のインテリらしい会話と思想についていけなかったことから始まったと理解できる。
この第二部「淵」は、視点はやや妻側である。第一部と対照的にモノローグが妻だからだが、物語の描かれ方は妻を軸としていない印象を禁じ得ず、明確に妻側とは言えない。
第三部は、精神的に噛み合うようになった夫婦は、過去そのものを象徴する金沢を去り、東京に出て、北海道に去った中国文学者の妻の叔父の邸宅へ越す。が、彼女にとってはそこは叔父に凌辱された嫌な記憶がある。今は全く落ちぶれた元実業家一家がそれを彼女に匂わして彼女を動揺させる一方で、彼女の方でも、妹がパンパンとして稼いだ金とキリスト教会のコネでアメリカに留学しようとする医学生の息子川地民夫から青酸カリを得ようと画策する。
というお話で、情事をしようと風呂から上がって来た青年が相手が死んでいるのを見て慌てて家を出た後、すれ違うように、一緒に仕事をする部下の女性・谷口香をきちんと大学に進学させることを楽しみとするようになった夫が帰宅するところで全巻の終わり。
当初の見込み通り妻の貞淑性に関して理解し合えたものの、彼女の不幸の原点であるそこはかとなく男を引き付けてしまうフェロモンが彼女に与えた原罪的意識を彼は理解することはなく、夫婦の精神的すれ違いは当初とは違う形で続いてきたという一種の悲劇と理解することが出来る。
彼が満州時代から翻訳しているシェイクスピア「トロイラスとクレシダ」とオーヴァーラップする内容で、その原稿を燃やしてすっきりする彼に対し、彼女は死による、懊悩からの解放への望みをどんどん強めていくという皮肉。
ニヒリズムを気取るも実に甘っちょろい川地民夫の青年像も結構面白い。
映画が通奏低音とする川(恐らく犀川)からカメラがズームアウトすると立ち尽くす主人公がフレームインしてくる辺りが映画的に格好良い。覗きの場面など特に前半は大映的趣向で、中平も大映の同種の作品を参考にしたような絵作りとしているような気がする。
金沢に暮らす友人に長電話をした翌日に読んだ「天才と狂人の間」が金沢も頻繁に出て来る石川県生まれの島田清次郎の評伝的小説で、翌々日に観たのが本作だった。僕の生活はこういう偶然が妙に多い。
1964年日本映画 監督・中平康
ネタバレあり
20年くらい前から中平康をご贔屓と称しチャンスがあると観て来た。彼の場合は画面が面白いのである。話がつまらなくても画面が良ければOKだ。プライムビデオでの鑑賞で、解像度はいま一つ。
本作は榛葉英治という殆ど忘れられた大衆小説家の三部作「渦」「淵」「流れ」(まとめて「渦」というらしい。近松秋江「黒髪」と同じようなもの)を映画化したもので、序盤こそ大衆的であるが、結構純文学である。映画もその三つに分かれる。
戦時中満州で写真見合い結婚をした英文学翻訳家・仲谷昇が、清純と思っていた妻・稲野和子に貞操観に疑いを持ち始め、本土へ戻った後小料理屋を始めた彼女が客の北山和夫と懇ろになっていることに気付き、遂には温泉に出かけたふりをしてこっそり家に戻り、その現場を覗き見る。
ここまでが第一部の「渦」で、視点は夫側である。
しかし、そに事実が表に出ると彼の精神は一種の柵から解き放たれ、妻を許す気になる。実際妻は彼のみを愛してきたと自認している。二人がかく精神的にすれ違ったのは、妻が彼のインテリらしい会話と思想についていけなかったことから始まったと理解できる。
この第二部「淵」は、視点はやや妻側である。第一部と対照的にモノローグが妻だからだが、物語の描かれ方は妻を軸としていない印象を禁じ得ず、明確に妻側とは言えない。
第三部は、精神的に噛み合うようになった夫婦は、過去そのものを象徴する金沢を去り、東京に出て、北海道に去った中国文学者の妻の叔父の邸宅へ越す。が、彼女にとってはそこは叔父に凌辱された嫌な記憶がある。今は全く落ちぶれた元実業家一家がそれを彼女に匂わして彼女を動揺させる一方で、彼女の方でも、妹がパンパンとして稼いだ金とキリスト教会のコネでアメリカに留学しようとする医学生の息子川地民夫から青酸カリを得ようと画策する。
というお話で、情事をしようと風呂から上がって来た青年が相手が死んでいるのを見て慌てて家を出た後、すれ違うように、一緒に仕事をする部下の女性・谷口香をきちんと大学に進学させることを楽しみとするようになった夫が帰宅するところで全巻の終わり。
当初の見込み通り妻の貞淑性に関して理解し合えたものの、彼女の不幸の原点であるそこはかとなく男を引き付けてしまうフェロモンが彼女に与えた原罪的意識を彼は理解することはなく、夫婦の精神的すれ違いは当初とは違う形で続いてきたという一種の悲劇と理解することが出来る。
彼が満州時代から翻訳しているシェイクスピア「トロイラスとクレシダ」とオーヴァーラップする内容で、その原稿を燃やしてすっきりする彼に対し、彼女は死による、懊悩からの解放への望みをどんどん強めていくという皮肉。
ニヒリズムを気取るも実に甘っちょろい川地民夫の青年像も結構面白い。
映画が通奏低音とする川(恐らく犀川)からカメラがズームアウトすると立ち尽くす主人公がフレームインしてくる辺りが映画的に格好良い。覗きの場面など特に前半は大映的趣向で、中平も大映の同種の作品を参考にしたような絵作りとしているような気がする。
金沢に暮らす友人に長電話をした翌日に読んだ「天才と狂人の間」が金沢も頻繁に出て来る石川県生まれの島田清次郎の評伝的小説で、翌々日に観たのが本作だった。僕の生活はこういう偶然が妙に多い。
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