映画評「グランドツアー」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2024年ポルトガル=イタリア=フランス=ドイツ=日本=中国合作映画 監督ミゲル・ゴメス
ネタバレあり
毎年5月WOWOWはカンヌ映画祭特集を組んで多く新しい(最新作に限らず)作品を見せてくれるが、今年は些か低調ではありますまいか。とは言っても、水準的な邦画やハリウッド映画を観るよりは後学の為にもなるので、その意味で時間の無駄にはならない。
時は植民地時代後期の1918年、植民地ミャンマーはラングーンに勤務中の英国公務員エドワード(ゴンサーロ・ワディントン)は、7年間会っていない婚約者モリー(クリスタ・アルファイアチ)が会いに来るのを嫌がって、シンガポール、バンコク、サイゴン、マニラ、大阪、上海そして重慶の奥地へ辿り着く。
上映時間も丁度半分になったここで、主人公が追って来るモリーに代わり、エドワードがしぶとい女だと言うモリーの言動が綴られる。しかし、マニラと大阪は飛ばされて、サイゴンの術師(正確な透視・予知をする占い師)の情報から中国へ向かい、やはり重慶を越える。白人を殺して物品を略奪した村民が死刑になるところに出くわし、サイゴンで付き人にした美人ゴック(ラン=ケー・トラン)と共に森を彷徨い、予言通りに死ぬ。が、少数民族の力で甦る。
最後の部分はかなり解りにくい。殺された白人がエドワードかどうかも定かではなく、別人として彼が死んだかも不明。凍え死んだと説明されたモリーが甦るのはもっと解らない。
一貫した逃走・追跡の物語はあるものの一種の幻想譚だから、そういう詳細はどうでも良いのだろうが、左脳人間としては多少気にかかる。
その一方、モノクロとカラーを使い分け、主に現地の伝統芸能的なものを紹介する時はカラーという感じになっていたり、二人の心理や行動が彼らが滞在する国の言語でナレーションされたり、縦横無尽に映像世界を作り上げているのが一定の興味を呼ぶ。
事前情報を得ずに観た僕は、ファッションや話の内容から戦前のお話だろう(映画のテロップ等で正確な時代は示されなかったと記憶している)と思いつつ車などは現在のものなので暫し首を傾げたが、登場人物が大通りで描写されることがないことを以ってそれらは100年前の本筋とは直接関係ない(現在の同地を見せるドキュメンタリー)と理解する。唯一術師の服装がTシャツだったところだけは一貫しない。思うに彼女は女優でないのではないかという雰囲気を漂わせていた。奔放な作り方という風に理解しておく。
以上総合的に考えると、作者は、二人を狂言回しに東アジア各地そのものを見せようとしたという気がするが、如何? コロナ流行時に各地を回ったのだとか。
そのものという表現をしたもののアジアに対する固定観念が強すぎる気がする一方、時代考証的にどうなのという鑑賞者側の意見にも疑問を呈したい。例えば、日本には現在も虚無僧はいる。まして100年前の設定なら街角にいても不思議ではないのではないか?
古典派・ロマン派の時代に欧州の子弟たちが欧州各地を彷徨するのをグランドツアーと言ったらしい。ゲーテ「ヴィルヘルム・マイスター」、ノヴァーリス「青い花」など古典派・ロマン派の作家に主人公の若者が各地を旅する教養小説が多いことと一致する。
2024年ポルトガル=イタリア=フランス=ドイツ=日本=中国合作映画 監督ミゲル・ゴメス
ネタバレあり
毎年5月WOWOWはカンヌ映画祭特集を組んで多く新しい(最新作に限らず)作品を見せてくれるが、今年は些か低調ではありますまいか。とは言っても、水準的な邦画やハリウッド映画を観るよりは後学の為にもなるので、その意味で時間の無駄にはならない。
時は植民地時代後期の1918年、植民地ミャンマーはラングーンに勤務中の英国公務員エドワード(ゴンサーロ・ワディントン)は、7年間会っていない婚約者モリー(クリスタ・アルファイアチ)が会いに来るのを嫌がって、シンガポール、バンコク、サイゴン、マニラ、大阪、上海そして重慶の奥地へ辿り着く。
上映時間も丁度半分になったここで、主人公が追って来るモリーに代わり、エドワードがしぶとい女だと言うモリーの言動が綴られる。しかし、マニラと大阪は飛ばされて、サイゴンの術師(正確な透視・予知をする占い師)の情報から中国へ向かい、やはり重慶を越える。白人を殺して物品を略奪した村民が死刑になるところに出くわし、サイゴンで付き人にした美人ゴック(ラン=ケー・トラン)と共に森を彷徨い、予言通りに死ぬ。が、少数民族の力で甦る。
最後の部分はかなり解りにくい。殺された白人がエドワードかどうかも定かではなく、別人として彼が死んだかも不明。凍え死んだと説明されたモリーが甦るのはもっと解らない。
一貫した逃走・追跡の物語はあるものの一種の幻想譚だから、そういう詳細はどうでも良いのだろうが、左脳人間としては多少気にかかる。
その一方、モノクロとカラーを使い分け、主に現地の伝統芸能的なものを紹介する時はカラーという感じになっていたり、二人の心理や行動が彼らが滞在する国の言語でナレーションされたり、縦横無尽に映像世界を作り上げているのが一定の興味を呼ぶ。
事前情報を得ずに観た僕は、ファッションや話の内容から戦前のお話だろう(映画のテロップ等で正確な時代は示されなかったと記憶している)と思いつつ車などは現在のものなので暫し首を傾げたが、登場人物が大通りで描写されることがないことを以ってそれらは100年前の本筋とは直接関係ない(現在の同地を見せるドキュメンタリー)と理解する。唯一術師の服装がTシャツだったところだけは一貫しない。思うに彼女は女優でないのではないかという雰囲気を漂わせていた。奔放な作り方という風に理解しておく。
以上総合的に考えると、作者は、二人を狂言回しに東アジア各地そのものを見せようとしたという気がするが、如何? コロナ流行時に各地を回ったのだとか。
そのものという表現をしたもののアジアに対する固定観念が強すぎる気がする一方、時代考証的にどうなのという鑑賞者側の意見にも疑問を呈したい。例えば、日本には現在も虚無僧はいる。まして100年前の設定なら街角にいても不思議ではないのではないか?
古典派・ロマン派の時代に欧州の子弟たちが欧州各地を彷徨するのをグランドツアーと言ったらしい。ゲーテ「ヴィルヘルム・マイスター」、ノヴァーリス「青い花」など古典派・ロマン派の作家に主人公の若者が各地を旅する教養小説が多いことと一致する。
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