映画評「私たちが光と想うすべて」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2024年インド=フランス=ベルギー=ルクセンブルク=オランダ=アメリカ=スイス=イタリア合作映画 監督パヤル・カパーリヤー
ネタバレあり
昨年観たパキスタンの「ジョイランド わたしの願い」と通ずる内容である。イスラム教とヒンズー教という違いがあるが、どちらの国でも両親の決めた婚約者と結婚するのが原則である。そうでない方々は恐らく勘当のような憂き目に遭うだろう。
そうした習慣に従って親に決められた男と3年前に結婚したのがムンバイの看護婦プラバ(カニ・クスルティ)で、結婚後ドイツに単身赴任した夫からは近ごろ何の音信もなく、貞淑な彼女も、彼女たちの言葉がよく喋れない孤独で帰郷を決める医師に心が動かないでもない。アパートに同居する看護婦の妹分アヌ(ディヴィヤ・プラバ)は奔放で、先般観たインド製アニメ「ボンベイ・ローズ」のヒロインよろしくイスラム教徒の若者シアーズ(リドゥ・ハールーン)との間で恋を育むが、両親の決めた相手を押し付けられるのが嫌で親からの電話にも出ない。
二人の物語を主流として傍流の話がある。
彼女たちの働く病院の賄い婦パルヴァティ(チャヤ・カダム)が20年以上の住んだアパートから追い出され、法律的に何の対抗処置もないので、帰郷を決める。プラバとアヌはその帰郷を手伝う。
その海辺の村でアヌはシアーズと密会し、プラバは海辺で溺死しそうになっている中年男性を看護婦の知識を駆使して救助する。彼の面倒を見るうちに記憶を失った男は彼女の夫に変身し謝罪するが、彼女は許さない。かくして女性たちの夜は更けていく。
インド映画で初めてカンヌ映画愛グランプリ(第2賞)を受賞したと話題になったらしい。インド映画と言っても多数の外国資本が入った純文学映画だから、当然ボリウッド映画のような場面は出て来ない。欧米の資本にまで頼って映画を作ろうとする映画作家がマサラ映画を作るわけはなく、必然的に劇を構成する意味での歌も踊りも出て来ない。
1980年代までただ一人日本に紹介されていたインドの大監督サタジット・レイの映画は謂わばセミ・ドキュメンタリーだった。こうした作品の先輩格である。
インドの父権主義による結婚にからむ問題が主題で、住居問題にも障壁となる同国のジェンダー問題が絡んで来る。後者は社会派的要素と言うべきだろうが、前者は女性の心の在り方に関する部分が強いように思う。
その辺りの襞を丁寧に描出する内容ながら、日本のドラマのように懇切丁寧に何でもかんでも説明し見せて行かないから解りにくい箇所があり、そういうところが退屈に繋がりかねないと心配される。丁寧な描写とは、観客にとって親切な見せ方とは限らない。
最後の最後で幻想を持ってきたのもどうかという気もする。
医師が彼女たちの言葉を理解しないという設定がよく解らなかったので調べたところ、ムンバイの病院ではインド公用語のヒンディー語が使われるが、彼女たちが普段話しているのはマラヤ―ラム語。更にややこしいことにムンバイの公用語はマラーティー語というのだそうだ。
ボンベイをムンバイと呼ぶようになったのもその言語関係のせいらしい。キエフがキーウに変わったようなものですかね。
2024年インド=フランス=ベルギー=ルクセンブルク=オランダ=アメリカ=スイス=イタリア合作映画 監督パヤル・カパーリヤー
ネタバレあり
昨年観たパキスタンの「ジョイランド わたしの願い」と通ずる内容である。イスラム教とヒンズー教という違いがあるが、どちらの国でも両親の決めた婚約者と結婚するのが原則である。そうでない方々は恐らく勘当のような憂き目に遭うだろう。
そうした習慣に従って親に決められた男と3年前に結婚したのがムンバイの看護婦プラバ(カニ・クスルティ)で、結婚後ドイツに単身赴任した夫からは近ごろ何の音信もなく、貞淑な彼女も、彼女たちの言葉がよく喋れない孤独で帰郷を決める医師に心が動かないでもない。アパートに同居する看護婦の妹分アヌ(ディヴィヤ・プラバ)は奔放で、先般観たインド製アニメ「ボンベイ・ローズ」のヒロインよろしくイスラム教徒の若者シアーズ(リドゥ・ハールーン)との間で恋を育むが、両親の決めた相手を押し付けられるのが嫌で親からの電話にも出ない。
二人の物語を主流として傍流の話がある。
彼女たちの働く病院の賄い婦パルヴァティ(チャヤ・カダム)が20年以上の住んだアパートから追い出され、法律的に何の対抗処置もないので、帰郷を決める。プラバとアヌはその帰郷を手伝う。
その海辺の村でアヌはシアーズと密会し、プラバは海辺で溺死しそうになっている中年男性を看護婦の知識を駆使して救助する。彼の面倒を見るうちに記憶を失った男は彼女の夫に変身し謝罪するが、彼女は許さない。かくして女性たちの夜は更けていく。
インド映画で初めてカンヌ映画愛グランプリ(第2賞)を受賞したと話題になったらしい。インド映画と言っても多数の外国資本が入った純文学映画だから、当然ボリウッド映画のような場面は出て来ない。欧米の資本にまで頼って映画を作ろうとする映画作家がマサラ映画を作るわけはなく、必然的に劇を構成する意味での歌も踊りも出て来ない。
1980年代までただ一人日本に紹介されていたインドの大監督サタジット・レイの映画は謂わばセミ・ドキュメンタリーだった。こうした作品の先輩格である。
インドの父権主義による結婚にからむ問題が主題で、住居問題にも障壁となる同国のジェンダー問題が絡んで来る。後者は社会派的要素と言うべきだろうが、前者は女性の心の在り方に関する部分が強いように思う。
その辺りの襞を丁寧に描出する内容ながら、日本のドラマのように懇切丁寧に何でもかんでも説明し見せて行かないから解りにくい箇所があり、そういうところが退屈に繋がりかねないと心配される。丁寧な描写とは、観客にとって親切な見せ方とは限らない。
最後の最後で幻想を持ってきたのもどうかという気もする。
医師が彼女たちの言葉を理解しないという設定がよく解らなかったので調べたところ、ムンバイの病院ではインド公用語のヒンディー語が使われるが、彼女たちが普段話しているのはマラヤ―ラム語。更にややこしいことにムンバイの公用語はマラーティー語というのだそうだ。
ボンベイをムンバイと呼ぶようになったのもその言語関係のせいらしい。キエフがキーウに変わったようなものですかね。
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