映画評「都会の女」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1930年アメリカ映画 監督F・W・ムルナウ
ネタバレあり
F・W・ムルナウのサイレント映画。ムルナウは最高傑作と呼び声高い「サンライズ」をビデオで観たが、画面で観ることが多い僕にはやはり解像度の高い画面で観たほうが印象に残りやすい為、結構忘れている。本作は YouTube の魅力的なプログラムでの鑑賞で、見事なハイビジョンで終始痺れまくった。
大農家の父親デーヴィッド・トーレンスに頼まれ小麦を売りに都会に出た若者チャールズ・ファレルがカフェの女給メアリー・ダンカンとすぐさま意気投合する一方、肝心の小麦の方は父親の条件づけた最低限のラインを1割も安い価格で契約してしまい、帰郷を恐れる。その気持ちを和ませるのがメアリー嬢で、彼女もまた優しそうなハンサム青年に心が動いてカフェを辞めて彼を追いかけ、駅でのちょっとしたすれ違いの後結婚をし、意気揚々と帰郷する。
この映画で最も素晴らしいショットが駅を降りた後に待っている。小麦畑を小走りする二人を捉えるドリー撮影、これなり。恋するカップルが走るショットを見せた映画は無数にあるが、これほど幸せそうな気分がその動きだけで伝わって来る映像はなかなかない。幸せなのは彼等だけではなく、こんな画面を見る僕たちもである。
しかるに、都会の煩わしさから逃れて牧歌的な気分を味わいたいというメアリーの気持ちは、家父長制の権化の如き父親の為に一挙に粉砕される。父親に歯向かえない夫にも不満が生じる。そこへ小麦を刈るために雇われたむさくるしい男たちがやって来て、若い都会女性に関心を示す。それを実行を移そうとするのが血の気の多そうなリチャード・アレクサンダーで、彼女は八方塞がりとなって家を飛び出す。
問題の男性3人が絡み合って父親が相手を間違えて息子に発砲した事実に反省しきり、父子は和解し、ここに至って鬼のような父親も遂に嫁を迎え入れる。
終盤は急展開すぎて呆気ない感じがするが、それを別にして僕がいつも驚かされるのは、アメリカ映画にはサイレント時代からかなりリベラルな考えに立脚して作られた映画が多いという事実である。しかも現在と違って常識的であることが好感を覚えさせる。
この映画もそんな作品の一つで、テーマは家父長主義への反抗だ。リベラルな都会から旧弊な地方へやって来て思想が衝突するというお話は何とも象徴的と言うべし。
しかし、僕は本作は画面を見る映画と思う。先の麦畑を筆頭に、カフェでのヒロインをめぐる男性たちを捉える場面のカット割りも素晴らしい。
【嫁】は息子(孫息子)の妻を指して一家の先人が言う言葉。自分の細君を捉まえて言っているのを聞くのは未だに馴染めない。この手は大体関西から生まれる誤用だが、関西の芸人以外から聞いたことのない【違うかった】というのもひどい。ここから【違かった】という動詞の形容詞変化が生まれたのだろう。若者が好む省エネを考えれば本来の【違った】のほうが良い筈だが。これと同じ形容詞用法が【違くて】だ。これも【違って】のほうが省エネだが、何故か【かなと思う】という極めて非省エネ(同義反復!)な語法同様によく使われる。この形容詞用法に関しては、テレビ朝日の番組で“林先生”も指摘していて膝を打った。
1930年アメリカ映画 監督F・W・ムルナウ
ネタバレあり
F・W・ムルナウのサイレント映画。ムルナウは最高傑作と呼び声高い「サンライズ」をビデオで観たが、画面で観ることが多い僕にはやはり解像度の高い画面で観たほうが印象に残りやすい為、結構忘れている。本作は YouTube の魅力的なプログラムでの鑑賞で、見事なハイビジョンで終始痺れまくった。
大農家の父親デーヴィッド・トーレンスに頼まれ小麦を売りに都会に出た若者チャールズ・ファレルがカフェの女給メアリー・ダンカンとすぐさま意気投合する一方、肝心の小麦の方は父親の条件づけた最低限のラインを1割も安い価格で契約してしまい、帰郷を恐れる。その気持ちを和ませるのがメアリー嬢で、彼女もまた優しそうなハンサム青年に心が動いてカフェを辞めて彼を追いかけ、駅でのちょっとしたすれ違いの後結婚をし、意気揚々と帰郷する。
この映画で最も素晴らしいショットが駅を降りた後に待っている。小麦畑を小走りする二人を捉えるドリー撮影、これなり。恋するカップルが走るショットを見せた映画は無数にあるが、これほど幸せそうな気分がその動きだけで伝わって来る映像はなかなかない。幸せなのは彼等だけではなく、こんな画面を見る僕たちもである。
しかるに、都会の煩わしさから逃れて牧歌的な気分を味わいたいというメアリーの気持ちは、家父長制の権化の如き父親の為に一挙に粉砕される。父親に歯向かえない夫にも不満が生じる。そこへ小麦を刈るために雇われたむさくるしい男たちがやって来て、若い都会女性に関心を示す。それを実行を移そうとするのが血の気の多そうなリチャード・アレクサンダーで、彼女は八方塞がりとなって家を飛び出す。
問題の男性3人が絡み合って父親が相手を間違えて息子に発砲した事実に反省しきり、父子は和解し、ここに至って鬼のような父親も遂に嫁を迎え入れる。
終盤は急展開すぎて呆気ない感じがするが、それを別にして僕がいつも驚かされるのは、アメリカ映画にはサイレント時代からかなりリベラルな考えに立脚して作られた映画が多いという事実である。しかも現在と違って常識的であることが好感を覚えさせる。
この映画もそんな作品の一つで、テーマは家父長主義への反抗だ。リベラルな都会から旧弊な地方へやって来て思想が衝突するというお話は何とも象徴的と言うべし。
しかし、僕は本作は画面を見る映画と思う。先の麦畑を筆頭に、カフェでのヒロインをめぐる男性たちを捉える場面のカット割りも素晴らしい。
【嫁】は息子(孫息子)の妻を指して一家の先人が言う言葉。自分の細君を捉まえて言っているのを聞くのは未だに馴染めない。この手は大体関西から生まれる誤用だが、関西の芸人以外から聞いたことのない【違うかった】というのもひどい。ここから【違かった】という動詞の形容詞変化が生まれたのだろう。若者が好む省エネを考えれば本来の【違った】のほうが良い筈だが。これと同じ形容詞用法が【違くて】だ。これも【違って】のほうが省エネだが、何故か【かなと思う】という極めて非省エネ(同義反復!)な語法同様によく使われる。この形容詞用法に関しては、テレビ朝日の番組で“林先生”も指摘していて膝を打った。
この記事へのコメント
この作品は以前DVDで観ましたが素晴らしかったですね。
実はちょうど同時期にムルナウ監督の「最後の人」も観たせいで、本作と混同して、たまに脳内で題名が“最後の女”と誤変換されます(笑)
あっちはホテルマンの話でしたね。
上のあらすじを読んで、本作の内容も思い出しました。
おっしゃるように麦畑のシーンが美しく、また観たくなりました。
やはりサイレント末期は、映画の一つの到達点と言える時代ですね。
>この作品は以前DVDで観ましたが素晴らしかったですね。
鑑賞済みでしたか。やはり金を出さないと駄目ですね^^:
>「最後の人」
字幕に頼らない凄い映画でした。
双葉さんは、「都会の女」のような作品の方が好きだと仰っていますが、その気持ちも解ります。
>やはりサイレント末期は、映画の一つの到達点と言える時代ですね。
そう思いますね。
ヒッチコックは、トーキーが始まって、またやり直しだとの思いを持ったようです。