映画評「タンゴの後で」
☆☆★(5点/10点満点中)
2024年フランス映画 監督ジェシカ・パルー
ネタバレあり
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972年)が公開された時僕は中学生だったので、かなりの話題作だったが、観られなかった。当時子供が唯一観られないレイティングであった成人映画に指定されたと思うし、そもそも僕のいる地方に来たかどうか。ちょっとしたポルノ・シーンがあっても当時は子供でも観られた(ピエル・パオロ・パゾリーニ監督「カンタベリー物語」(1972年)もテレンス・ヤング監督「アマゾネス」(1973年)も観た)ものの、これは成人映画だったので子供には無理だったと記憶する。
16歳のマリア・シュナイダー(アナマリア・ヴァルトロメイ)は、母親(マリー・ジラン)に家を追い出されて、叔父さんの家に少しやっかいになった後、父親ダニエル・ジェラン(イヴァン・アッタル)と同じ俳優業を目指す。
幾つかの脇役出演の後、気鋭の若手監督ベルナルド・ベルトルッチ(ジュゼッペ・マッジョ)の新作「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のヒロイン役に抜擢されるが、聞かされていなかった共演者マーロン・ブランドー(マット・ディロン)との屈辱的なセックス・シーンを強要され、ショックを受ける。これに傷ついた彼女は奇行に走り、麻薬に溺れていく。
数年後、取材に訪れた二十歳の女子大生ヌール(セレステ・ブリュンケル)の共感を惹き起こし、彼女と同性愛関係を結ぶ。彼女の努力もあって何とか麻薬依存から立ち直る。
ジャーナリストである、凄く年の離れた従妹ヴァネッサ・シュナイダーが書いた伝記を女性監督ジェシカ・パルーが映像に移した。男性はこの手は作りたがりませんな。
最近はインティマシー・コーディネーターなる専門家が性的な描写のある映画やドラマに付くことになっているが、勿論半世紀以上も前にそんな配慮があるわけがない。
13歳の時の裸体撮影の関するナスターシャ・キンスキーの訴えに基づきヴィム・ヴェンダースは自作「まわり道」を上映・配信禁止とした。こうした現象に関連して思うことは、時代への考慮が全くないのも少し考えものだということ。例えば、何百年も前の芸術家を同じように扱ったら、世界各地の美術館や図書館で少なからぬ作品が隠されてしまうかもしれない。
勿論、本作のマリア・シュナイダーがこのようなトラウマを持たざるを得なかったことには同情を禁じ得ない。が、ベルナルド・ベルトルッチをくず扱いにする言動はどうか。
他方、僕の目には、諸悪の根源は母親ではなかったか、という気がしている。
性搾取の問題を考えさせるにおいてきちんと作られていると思う一方、映画としてそこまでこなれているとも言い切れない。テーマの重要性と映画の価値は別問題なのは言うまでもない。
学校での“さん付けで呼びましょう”運動と軌を一にするのか、ここ十数年で顕著になった偉人・有名人に対する“さん”付けには違和感がある。クイズ番組の人名の答えに“さん”など付ける必要はない。同業者は序列関係等色々あるから一定程度理解するが、“さん”に一切関係のない外国人や亡くなって久しい故人に対して付けるのは気持ちが悪すぎる。“敬称無しが最高の敬称”と述べていた東京新聞の一面コラムが、代替わりしてから、“さん”付けが顕著になった。そこで面白いことに気付いた。山本周五郎(1967年死去)、三島由紀夫(1970年死去)辺りまでは大概の文責者(現在コラムの書き手は一人ではないと思われる)は敬称無しで通す。1996年に亡くなった司馬遼太郎には付ける。が、もっと後に亡くなった水上勉(2004年死去)には付けない。この差によって書き手が複数いることに気付いたのである。 文芸コラムの書き手は、逆に、殆ど “さん” を付けない。 彼らが“さん”を付けないのと、僕ら無名人が有名人をつかまえて“さん”を付けないのは根拠が違うのだが。
2024年フランス映画 監督ジェシカ・パルー
ネタバレあり
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972年)が公開された時僕は中学生だったので、かなりの話題作だったが、観られなかった。当時子供が唯一観られないレイティングであった成人映画に指定されたと思うし、そもそも僕のいる地方に来たかどうか。ちょっとしたポルノ・シーンがあっても当時は子供でも観られた(ピエル・パオロ・パゾリーニ監督「カンタベリー物語」(1972年)もテレンス・ヤング監督「アマゾネス」(1973年)も観た)ものの、これは成人映画だったので子供には無理だったと記憶する。
16歳のマリア・シュナイダー(アナマリア・ヴァルトロメイ)は、母親(マリー・ジラン)に家を追い出されて、叔父さんの家に少しやっかいになった後、父親ダニエル・ジェラン(イヴァン・アッタル)と同じ俳優業を目指す。
幾つかの脇役出演の後、気鋭の若手監督ベルナルド・ベルトルッチ(ジュゼッペ・マッジョ)の新作「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のヒロイン役に抜擢されるが、聞かされていなかった共演者マーロン・ブランドー(マット・ディロン)との屈辱的なセックス・シーンを強要され、ショックを受ける。これに傷ついた彼女は奇行に走り、麻薬に溺れていく。
数年後、取材に訪れた二十歳の女子大生ヌール(セレステ・ブリュンケル)の共感を惹き起こし、彼女と同性愛関係を結ぶ。彼女の努力もあって何とか麻薬依存から立ち直る。
ジャーナリストである、凄く年の離れた従妹ヴァネッサ・シュナイダーが書いた伝記を女性監督ジェシカ・パルーが映像に移した。男性はこの手は作りたがりませんな。
最近はインティマシー・コーディネーターなる専門家が性的な描写のある映画やドラマに付くことになっているが、勿論半世紀以上も前にそんな配慮があるわけがない。
13歳の時の裸体撮影の関するナスターシャ・キンスキーの訴えに基づきヴィム・ヴェンダースは自作「まわり道」を上映・配信禁止とした。こうした現象に関連して思うことは、時代への考慮が全くないのも少し考えものだということ。例えば、何百年も前の芸術家を同じように扱ったら、世界各地の美術館や図書館で少なからぬ作品が隠されてしまうかもしれない。
勿論、本作のマリア・シュナイダーがこのようなトラウマを持たざるを得なかったことには同情を禁じ得ない。が、ベルナルド・ベルトルッチをくず扱いにする言動はどうか。
他方、僕の目には、諸悪の根源は母親ではなかったか、という気がしている。
性搾取の問題を考えさせるにおいてきちんと作られていると思う一方、映画としてそこまでこなれているとも言い切れない。テーマの重要性と映画の価値は別問題なのは言うまでもない。
学校での“さん付けで呼びましょう”運動と軌を一にするのか、ここ十数年で顕著になった偉人・有名人に対する“さん”付けには違和感がある。クイズ番組の人名の答えに“さん”など付ける必要はない。同業者は序列関係等色々あるから一定程度理解するが、“さん”に一切関係のない外国人や亡くなって久しい故人に対して付けるのは気持ちが悪すぎる。“敬称無しが最高の敬称”と述べていた東京新聞の一面コラムが、代替わりしてから、“さん”付けが顕著になった。そこで面白いことに気付いた。山本周五郎(1967年死去)、三島由紀夫(1970年死去)辺りまでは大概の文責者(現在コラムの書き手は一人ではないと思われる)は敬称無しで通す。1996年に亡くなった司馬遼太郎には付ける。が、もっと後に亡くなった水上勉(2004年死去)には付けない。この差によって書き手が複数いることに気付いたのである。 文芸コラムの書き手は、逆に、殆ど “さん” を付けない。 彼らが“さん”を付けないのと、僕ら無名人が有名人をつかまえて“さん”を付けないのは根拠が違うのだが。
この記事へのコメント
マリア・シュナイダーは訃報でも代表作が「ラスト・タンゴ・イン・パリ」でしたね。じっさいそれがいちばんよかったのでしょう。ただし、ずっと女優業を続けていたんですね。
晩年、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」について取材に来た記者に、「いまでもその映画について聞きに来る人は多いんだけど、最新の出演作についてはだれもたずねないのね」と、自嘲気味に答えていました。
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、公開当時はきわどい場面が売り物にされていましたし、68年性革命の流れを汲んだもので、マリア・シュナイダーも当時はそこがすごいのよ、がたがたいう人はわかってないわね、くらいの態度でインタビューに応じていましたよね。
でも、その作品のインパクトが強すぎたせいで、その後のオファーがエロチックな役ばかりになって、女優としては不満がたまっていったようです。
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」「さすらいの二人」あたりが代表作になるのでしょうが、どちらも70年代には日本でも流行った存在感女優みたいなかんじで、芝居がうまい役者という印象はなかった。
そしてこの話題作でも、当時の映画界のセクハラを告発する依代みたいな役回りにされているようなのですね。
いまはこういう話が流行るから作られているのでしょうが、意味があるとは思えない。なんでみんなこういう話が好きなの? になってしまいます。
>「ラスト・タンゴ・イン・パリ」「さすらいの二人」あたりが代表作になるのでしょうが
この映画でもこの二作品くらいしかまともに扱われていません。
>芝居がうまい役者という印象はなかった。
そう思います。
>いまはこういう話が流行るから作られているのでしょうが
ちょっと考えるべきところがありますね。
>「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、冒頭の、マーロン・ブランドとマリア・シュナイダーが歩くパリの街を俯瞰で撮った場面がすばらしく
そう、良いショットも多かったですよ。
音楽も良くて、サントラLP持っています。